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「
川崎小3男児転落事件」のような殺人事件が、頻繁におきるようでは、刑罰を重くするしか再発防止にならないと思うのは多くの人が考えることではないだろうか?
何が起きてくるかもしれないのが人生である。それが未知への魅力でもある。しかしつらいこともある。人生の浮き沈みは世の常である。平家物語の冒頭でも云ってます!
祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらわす。
おごれる者久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
時代が変わろうが世の無常は変わらない。(親としては、子どもはあまやかすだけではなく、子どもの頃からそのようなことに対する耐力/柔軟性を少しずつ養っておくことも必要でしょう。)人は自らの不遇を世の中(社会)のせいにして罪のない他人を傷つけてはならない。人を殺めた理由を世の中(社会)のせいにもっていったら、どうしようもないことになることは言うまでもない。欝になったということで、人を殺めていたら、命がいくつあっても足りないし、無法状態に近づいて行く。恐れることは私刑復活の空気が強まることだ。(相応しい刑罰が行われないとそういうことになっていく。)
殺人は取り返しがつかないことなのです。一事が万事である。言い訳で現状復帰できるものでない。そういうことなら刑罰の内容は自ずと知れるところとなる。
もっともっと被害者側の立場に立った法曹界(弁護士・裁判官・検察官など法律に関係ある人の社会)の判断を求めたい。悶々として残りの人生を送っている被害者側の気持を知って欲しい。
何の罪もない被害者の気持をおもんばかると、理由がなんであれ、殺人⇒最高刑を望みたいところだ。そうでなければ、このような殺人事件は後を絶たない。
一方で、行動に移す前に戒めが必要です。このような人物の行為を思い留まらせる社会及び回りの努力も必要である。この仕組み造りに今の日本は努力しているのだろうか?(努力していないと感ずる人が大半であろう。)これから先どちらに向かって行くのか、さらにこのような事件に拍車がかかるのか、あるいは是正されていくのか、皆目分からない。物的社会だけのひずみ(仕打ち)は必ず来ると、時の総理大臣には申し上げたい。
今の社会には本当に良き指導者が求められているような気がしてならない。