「
<光市母子殺害>被告の元少年「死んでも償えない」」[06月21日]毎日新聞によれば、
『被告は「自分のしたことは死んでも償えることではないし、謝罪しても許されることではない」。判決前の接見で、被告は話した。それでも「たとえ償いきれなくても、生きていることが許されるのなら、償いの気持ちを表し続けていきたい」と思っているという。』
『1,2審判決によると、元少年は99年4月14日、光市の会社員、本村洋さん(30)方で、妻の弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、抵抗されたため手で首を絞めて殺害。傍らで泣き続けていた長女夕夏ちゃん(同11カ月)を床にたたきつけたうえ絞殺した。』
このような残酷な殺人をやっておいて、今更こういうことをよくいえたもんだとつくづく思う。過去の育った家庭環境がどんなものであれ、決して罪が軽くなるものではない(情状酌量の余地はない)。現代は結果勝負の世の中である。
そうでないと既に予備軍が世の中にわんさかおり、予備軍はてぐすね引いて「あまい裁き」を待っているのである。従ってこれら予備軍がこのような残虐な事件を起こさないためにも、「抑止力のある裁き」が必要である。今のように不透明な時代であるからこそ、「大岡裁き(
例)」が必要である。
今の日本は何の罪もない被害者側の権利が守られずに、加害者側の権利が守られているとよくいわれる。全くおかしな話である。このように矛盾したことが成立しているのなら弁護人制度自体の見直しが必要と思っている人が多いのではないだろうか?
国際法といえど、何の罪もない被害者側の権利が守られずに、加害者側の権利が守られているのを是とするものではない。法曹界ではその辺について誤解しているのではないだろうか?
「何の罪もない被害者側の権利が守られずに、加害者側の権利が守られている」結果が、日本の将来に暗い影を落としているのは末恐ろしい。悪がはびこる日本列島という構図になっている。まじめに生きている者の権利が守られずに、いい加減な者の権利が守られるという最悪の日本へと突き進んでいるのである。
この際、この悪のスパイラルを断ち切るためにも適切な「大岡裁き」を求めたい。