先日(4月18日)皇居二の丸庭園に行き感動しました。私自身が皇居に入るのは、小学校4年生の時、1954年1月1日の皇居参賀以来のことでした。ものすごい人混みの中で「天皇陛下バンザイ」をやったことを覚えています。この頃までが「バンザイ」をやっても恥ずかし気がなかった時代は・・と感じます。戦後の人間昭和天皇に改めて合掌!
この翌日(1月2日)に二重橋事件として有名となった16名の死者がでた二重橋での大混乱事件が起きています。この事件の時に隣家の「福あんちゃん」(青年)は現場にいて折り重なった人々の下から脱出することが出来て「助かった」という話もあり、私の皇居参賀も歴史的なものであったわけです。
以上の話は、明治以降の皇居=天皇の居所という見方ですが、やはり皇居→江戸城→大奥という連想の流れがポピュラーであり、二の丸庭園の後に大奥の痕跡を探ってきました。やはり皇居という現場に足を踏み入れてみて色々と分かるものが多くありました。大奥は本丸の松の廊下跡に近いサイドにあったことを皇居の巡回警備の方から教えてもらえました。
「現在でも、大奥の建物の図面が残っており大奥は、一部を除いて2階建てであり3階建ての部分もありました。また大奥の建物は、本丸の建物の半数を占めておりいかに大きな建物であったかがわかります。(添付8)」という説明があり、パリに1683年の江戸城の図というのがあり(添付1)当時のスケッチであるこの絵の中に大奥もあることと思います。大奥について本になっている図面等は著作権の関係でまだまだインターネットには流されにくいようです(添付3)。
大奥のあったところの正面にあった天守閣(添付4、7)は、その跡に立ってみると以外な狭さでびっくりしました。まさに江戸時代が戦国の時代から抜け出たという実感です。
江戸城構築の歴史の中での飲み水供給システムとしての神田上水(添付2)については、先日小石川後楽園を訪問した際に、庭園の中に神田上水を流し、今でもまだその痕跡となっている小川を残しているという印象的なものが古地図によって理解できました。
大奥の物語(添付5,6,7)は色々とあるようですが、私たちは方向も違い大奥から少し離れたところにある、江戸城の裏門で大奥女中の通用門であった平川門まで足をのばしました。罪人や死人もこの門から城外へ出されたので、不浄門とも呼ばれていたそうです。松の廊下刃傷事件の浅野内匠頭や絵島生島事件で大奥を追われた筆頭女中絵島などが、ここから城外に出されたところです。こういったことに思いを巡らせて歩いたのが私たちにとっての「大奥の経験」でした。
ちなみに私が小さい頃(小学校時代)、近所に全国のテキ屋を取り仕切っている親分さんがいて、我が家ではよく靖国神社での出し物の無料券をもらい、靖国神社境内でのサーカス小屋とかおばけ屋敷とかに父親に連れていってもらったことを思い出しました。ストリップ小屋もよく出ていました。今は小泉首相の参拝で物議をかもし、能舞台で能も演じられる上品な雰囲気の靖国神社も戦後しばらくは、テキ屋さん(渥美清が演じた寅さんの世界)たちの舞台であったわけです。
2004年4月29日
MM
添付1
西洋古版アジア地図 No.14
Palais d'Iedo. (『江戸城図』』)
[Paris, 1683年]
銅版無彩 20.9_13.6cm
No.13の図の続き。江戸城の図。
添付2
江戸城跡江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。

以来、家康、家忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二十四年に西の丸下及び現在の皇居をとりまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四十四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城址は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模は我が随一のものであることから、昭和三十八年五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
徳川家康移封時の江戸は東と西は隅田川と江戸湾に面し、西北は無限とも言える武蔵野の原野が続いていた。従って西北側の防備を固めれば戦略的にみて堅牢な一大城塞になるとみて、家康は矢継ぎ早やに種々の施策を実行したようだ。これは秀忠、家光に引き継がれ大江戸城が造られて行った。

江戸の上水路飲料水確保のための神田上水設営、江戸城西の丸堀り揚げ土による日比谷入江の埋め立て、道三堀の造営による築城資材運送用の舟入堀、隅田川に流れ込んでいた利根川の河道を銚子に向ける工事などなど。
その後、神田山を切り崩し、その土で、日本橋以南の浅瀬海岸の埋め立て、及び先に埋め立てた日比谷入江の土盛りをした。これらの工事により日本橋浜町あたりから新橋あたりまでに至る市街地が造成された。
また、西国外様大名などには主として枡形や石垣普請、関東・奥羽地方の大名には濠や土手の工事が割り当てられ、神田川通船工事などをとおして、隅田川—浅草橋—筋違橋—御茶ノ水—水道橋—飯田橋—市ヶ谷見附—四ツ谷見附—赤坂見附—溜池—幸橋門—数寄屋橋門と連なる外堀が完成した。
添付3
江戸城本丸詳図 付大奥・二之丸の図 / 日本地図選集刊行委員会編
出版事項 東京 古地図史料出版株式会社
対照事項 和紙 四色刷 80_55㎝
請求記号 図類1948
北方資料データベースレコードID: 0D027780000000
北大北方資料室 - 地図・図類目録追加収載分収載

添付4
家康江戸城
添付5
大奥を知る 1 はじめに
2 大奥とは何か
3 男子禁制の虚実
4 奥女中の職制 5 大奥は一生奉公か
6 実成院のこと(大奥幕末事情)
はじめに
大奥が語られる時、女性同士の権力争いの場面が強調され、大奥とはいかなるものかという理解がされていないようである。確かに大奥の実態というのは当時においてさえ、一般に知られておらず現在に伝わっているところもほんの一部に過ぎない。
それというのも大奥奉公に上がる際には、内情を漏らさぬように誓詞血判していたし、職制が複雑多岐であるため、一人の女中が大奥全体を知ることは不可能に近かったのである。事実、明治維新後に旧女中から聞き取りした結果でも細部については統一性を欠いているという。
以上のような制約はあるが、ここで私の知るところをまとめてみたいと思う。
* 奥女中誓詞(一部抜粋)
「一 奥方の儀、御事によらず、外様へ申すまじき事」
大奥とは何か
江戸城は、本丸・ニノ丸・三ノ丸・西丸から成なっており、本丸には、本丸御殿、天守閣があった。また、本丸御殿は、表向・中奥・大奥に三区分することができ、更に大奥の内部は御殿・長局・広敷という3つの区域があった。もちろん、時代によってはニノ丸や西丸にも大奥があったが、ここでは本丸大奥について取り上げている。
大奥は、将軍の御台所(正室)や側室や生母、彼女らに仕える女中の生活の場である。 御殿には、将軍の大奥での寝所や御台所らの居室や奥女中の詰所があり、長局には、奥女中の住居がある。狭義に大奥という場合には、この御殿と長局のみをいう。広敷は、別棟となっており、大奥の事務を行う男性職員が詰めている。
「大奥」という名称は、表向に対して一番奥ということであるが、これが固有名詞化されたものと考えられる。大名家等では、「奥向」又は「奥御殿」などと呼称していた。
男子禁制の虚実
大奥は、その性格上、男子の出入りに制限があるのは当然である。しかし、一般に牡猫一匹入れないといわれるが、それは誇張しすぎである。
まず、大奥には広敷といわれる一角があり、男性職員が多数詰めている。例えば、御台所の食事などは基本的には、この広敷の台所役人(男性)によって作られるのである。もちろん、この広敷と大奥御殿は自由に出入りができるわけではなく、御広敷御錠口によってのみしか出入りができず、厳重に管理されている。とはいえ、13代将軍家定の御台所に愛猫がおり、姿を消すたびに広敷役人が探しまくったという話もあるから、御用があれば割と出入りしていたのかもしれない。
狭義の意味での大奥(御殿と長局)の男子の出入りについてであるが、享保年間の大奥法度によれば「九歳までの子・兄弟・甥・孫」の呼び寄せが可であり事情によっては1泊のみ認められた。また、御殿内には老中などの表役人が御年寄と対談する「御広座敷」という部屋も用意されていたし、急病人が出た場合は当然ながら医師が入ることもあったという。
大奥では旧暦の正月節分に、広敷の御留守居役が年男役を務め、女中に胴上げされたともいい、また、正月七日には、御鏡餅曳きといって餅を舟そりに乗せて御広敷の下男が変装して囃しながら曳き歩く行事もあったという。このように見ていくと、私たちが思っているより男子禁制は緩やかだったといえる。
奥女中の職制
狭義の意味での大奥(御殿・長局)に生活する奥女中には、どのような職制があったのかだろうか。大きく分類すると「お目見え以上」、「お目見え以下」、「部屋方」に分類される。お目見え以上は、将軍・御台所に謁見できる身分の女中であり、お目見え以下は、謁見できない身分である。ただし、お目見え以下であってもお目見え以上に出世することが可能であることは表役人と変わらない。
部屋方というのは、お目見え以上の女中に私的に雇われる女中であって、正式な女官ではなく、従って、活動範囲は長局に限られていた。
以下でもう少し詳しく職制について見ていくこととするが、大奥の女中というのはすべて将軍付女中ではなく、御台所付女中や世子付女中、将軍生母付女中などがおり、基本的には職制は同じではあるが、将軍付きにはある職制が御台所付きにはないという場合や逆の場合などがある。
大奥は一生奉公か
大奥に奉公に上がると、一生、外の世界に出ることができなかったのだろうか。結論から言えば大多数の奥女中にとっては、そのようなことはなかったといえる。ただし、将軍の寵愛を受けた者は終身、江戸城から出ることはなかった。将軍が亡くなると桜田の御用屋敷に移り、位牌をいただき亡き将軍の冥福を祈る生活に入るのである。
この時代は、女性が独自に身を立てる事は困難であったが、大奥奉公は立身出世を叶えてくれる場であった。仮に将軍の子を産み、その子が時期将軍に立てられることにでもなれば、自身の栄華は元より親族にまで、その恩恵が及ぶのである。また、将軍の寵愛を受けることがなくても、自身の才覚で御年寄の地位まで極めれば、表への働きかけも可能なほどの権勢も手に入るのである。
もちろん、このような大きな夢を持って大奥に奉公に出るものばかりではなく、多くは、行儀見習、平たく言えば花嫁修業の一環と考えていた者が多かっただろう。仮に部屋子として雑用に従事していても大奥に奉公したというだけで一種のステータスが得られた。
さて、彼女たちは、日常、外に出ることが出来たのだろうか。
まず、お目見え以下の奥女中の場合は、宿下がりといって、規定の日数の間、御年寄の許可の元に外の世界に出ることが許されていた。日数は、奉公3年目に初めて許されて6日の暇を許された。6年目に12日間、9年目に16日間でそれ以上は増える事がなかったという。非常に厳しいようだが商家奉公の場合は盆と正月に1日の暇しか与えられない時代にあっては、それほど度を外れた厳しさでもないだろう。
お目見え以上の女中については詳しくはわからないが、御年寄が寛永寺や増上寺に代参したり、大名家に使いに出る場合にお供をする機会があったと思われる。その際に非公式に芝居見物などに興じることがあったという。
では、最後に将軍代変わりの際、奥女中は総入れ替えで召し放ちにならないのだろうか。やはり、代変わりになれば召し放ちの女中もある程度いたと思われるが、多くは大奥に残り主変えを伴いつつも残留したようである。幕末の大奥の実力者・滝山などは四代の将軍に仕えているし、大奥最高の役職である上臈御年寄でさえも二代、三代に仕える事が珍しくなかったのである。

添付6
大奥江戸城城中の将軍の正妻(御台所)および側室の居室をさす。将軍の居室を中奥といい,中奥と大奥との境界に上下お鈴廊下があり,将軍のみが出入する。したがって本丸なら将軍の,西の丸なら大御所あるいは将軍世子の夫人すなわち大御台所・簾中を主人とする女性ばかりの世界をさす。大奥女中の職制は時代によって変化しており,一定ではない。ここは将軍以外は男性出入禁止地区であった。大奥の部屋は御休息の間のほか,切形の間・御化粧の間・納戸の間・御清の間・御座の間・御小座敷・北の御部屋・奥御膳所・御対面所・宇治の間・呉服の間・御溜の間などに分かれている。職制としてはジョウロウ※注1※・御年寄・中年寄・御客会釈・チュウロウ※注2※・御坊主か御小姓・御錠口・裳使・取次・御右筆・御切手書・呉服の間・御三之間・御広座敷・御火之番・御使番・御仲居・御末・御犬子供などがいた。そして将軍・御台所に御目見以上と以下の区別もされていた。
添付7
大奥
元大奥から御天守を見る。
江戸城の大奥での女中総人数は、ふつう500人から多くても1000人ぐらいであった。現在でも、大奥の建物の図面が残っており大奥は、一部を除いて2階建てであり3階建ての部分もありました。また大奥の建物は、本丸の建物の半数を占めておりいかに大きな建物であったかがわかります。
男は、将軍様以外は、入れないと思うでしょうが実際には、大奥に勤める女中の宿下がりできない人の九才までの子、兄弟、甥までなら呼び寄せる事ができました。
大奥の女中の中には、お目見えと以下の階級があり御台所にお目道りできるかできないかので分けてありました。お目見えは、旗本、御家人の娘に対してお目見え以下は、百姓、町人の娘達でありました。大奥では、役付のお目見え以上のもの達が主体でお目見え以下は、たんなる補助係にすぎませんでした。お目見えの役付は、12〜13才位で大奥にはいると、よほどの事情がない限りは、やめたり結婚をしたりすることは出来ませんでした。一生を独身で過ごし大奥に住み外界事を知らずに老いていきました。しかし、何に生き甲斐や喜びを感じていたのでしょう。権力と贅沢へのあくなき執念だと思われます。時には、彼女たちが政治へ影響力を持っていました。

元大奥付近
(写真左に見えるのは天皇即位の際大嘗祭が執り行われた縦もで建物です。)
大奥の臭い話。
女中総人数が、ふつう500人から多くても1000人ぐらいであった、糞尿を如何に処理をしたのでしょうか?
これは、大奥ができてから今の江戸川区の葛西の百姓が買っていました。売るのは、大奥で買い取るのが百姓でした。大奥のものは、贅沢なものを食してるので肥料価値が高かったのです。今では、考えられない話です。