NHKテレビの日曜日夜8時から放映されている大河ドラマ、「篤姫」を見られている方は私の知人の方の中でも結構多く、時々話題にのぼることがあります。話題の中の一つに、彼女が江戸城の無血開城に大きく貢献するというのは本当か?というものが時々あります。
私は、仕事で頻繁にJR田町駅で降車する機会も多く、江戸城の無血開城につながったと言われる、西郷隆盛と勝海舟の薩摩屋敷での会談のアッピール(添付1)に強い印象を持っていました。
放送的には、この「篤姫」は、明日の11月30日(日)が、江戸城の無血開城の物語になるということですので、それを見る前に私なりの答えを用意しておこうと想いました。その目的のために先週に放映された本日の再放送の内容を注意深く見てみました。
結論的に言いますと、天璋院の西郷隆盛へ送った嘆願書は、徳川家を今日まで生き永らせることには寄与したとは言えそうですが、江戸城無血開城に貢献したということはないと歴史的には分析されていました(添付2)。
それでは、江戸城無血開城の原因として何があげられるかと言いますと;
(1)勝海舟と西郷隆盛の個人的信頼関係があったこと。
(2)英国公使パークスが討幕軍が江戸城を攻撃すると聞いて、「吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は恭順と云うことである。その恭順して居るものに、戦争を仕掛けるとは如何」と批判し難色を示したこと。
(3)そしてなによりも内乱の激化による外国勢力の干渉、侵略を恐れたこと。
と分析されています(添付2)。それでも慶喜に恭順の姿勢を取らせたことが貢献している?
天璋院の時代にはカメラが輸入されていたということで、実物の彼女の凛とした雰囲気を知りたいと思い、探してみましたが、明治時代に入り40歳代の写真とか絵が見つかりました(添付3)が、やはり宮崎あおいのように若くて凛としている雰囲気という訳にはいきませんでした。
2008年11月29日(土)
MM
添付1

JR田町駅へのエスカレータ横壁に描かれた西郷南洲・勝海舟会見の図
2008年11月19日
MM撮影
添付2
江戸城無血開城と天璋院篤姫の嘆願書・・・・・・・・・
こんな天璋院にさらに幕府崩壊、江戸城あけわたしという最大のピンチが襲って来ます。攻めてきたのは彼女の実家の薩摩の軍隊だったのですが、彼女は「徳川の人間」として最後まで城にとどまり、いよいよ立ち退くときは身のまわり調度家具類を一切運び出さなかったそうです。そして、維新後は徳川宗家の当主となった弱年の家達のためにあれこれ面倒を見続け、幕府倒壊後に徳川宗家16代となった家達から「もし徳川家に天璋院なかりせば、家は瓦解のさい滅亡し果てていたにちがいない」と評されたそうですが、1883年11月20日にまだ47歳の若さで中風症のために死去しています。
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寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、200年6月)によると、篤姫から西郷に宛てられた手紙は、「官軍隊長宛の天璋院嘆願書として知られる」もので、彼女の官軍隊長宛の嘆願書をもった使者は慶応4年3月11日(1868年4月3日)に江戸城を出て13日に戻っているようです。
ところで、天璋院篤姫はその嘆願書でどのようなことを書いていたのでしょうか。幸い、この嘆願書は、鹿児島県婦人会編『薩藩女性史』(鹿児島市教育会、1935年10月)に天璋院がら「薩州隊長人々」宛てに出された嘆願書として全文が載っていますのでその内容を知ることが出来ます。そこで彼女はつぎのように嘆願しています。
「私事徳川家へ嫁し付候上は、當家之土となり候は勿論、殊に温恭院ましまさず候へば、猶更同人之爲當家安全を祈候外御座無、存命中當家萬々一之事出來候ては、地下において何之面目無之と、日夜寢食も安んぜず、悲歎致居候心中之程御察し下され、兎に角此度之事御取扱下され候はゞ、私共一命相すくひ被下候よりも猶重く有難き事、此上の悦御座無候。當時之形勢と申、人情と申、外諸侯において御頼程之きりやう之者も御座無、又可盡力も無之候得ば、御迷惑ながら其御方のみ相便り候外工夫も御座無候に付、呉々厚く御憐み被下、此艱難を御赦被下候はゞ□□其御先祖様御父様之御孝道は申に及ばず、徳川家へ之義も相立ち、御武徳御仁心此上なき義と存ぜられ候。」
天璋院は、「徳川家に嫁いだ以上は、当家(徳川家)の土となるのは勿論のことであるが、温恭院(徳川家定のこと)がすでに他界しているので、いまは亡き夫に替わって当家の安全をただ祈るばかりである。しかし、自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと不安で日夜寝食も充分に取れず悲歎しています」と心情を吐露し、徳川家の存続をただひたすら嘆願しているのですね。
このような嘆願書が西郷隆盛の心を大きく揺さぶることが出来たでしょうか。西郷たち討幕軍は、鳥羽伏見の戦いで兵力で3倍もあった旧幕府軍を打ち破り、その勢いを借りて京から江戸へ錦の御旗を掲げて決死の覚悟で進撃して来たのです。相手は長年にわたって大名たちの上に君臨し権威を誇ってきた勢力であり、少しでも油断するとすぐに態勢を立て直して反撃してくる力を充分に持っていると思われます。そんな情況の中で、篤姫の嘆願書が西郷隆盛の心を大きく揺り動かすとはとても思えません。
また、篤姫のこの書簡が出される以前において、すでに徳川側の責任者となった勝海舟から派遣された山岡鉄舟が西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合いを行っているのです。すなわち、慶応4年3月9日(1868年4月1日)、勝海舟から派遣された山岡鉄舟が新政府軍の本陣がある駿府で西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合いを行っており、このときに山岡鉄舟は西郷隆盛から降伏条件」の書付を手渡されています。この降伏条件の書付の最後には、「右の条々実効急速相立ち供わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事」とあり、こうして平和的解決の端緒が開かれていたのでした。そしてさらに、勝海舟自身が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見しています。こうして新政府軍の江戸総攻撃は中止され、江戸城無血開城が実現しています。
なお、勝海舟が慶応4年3月5日(1868年3月28日)に書いた日記(勁草書房版『勝海舟全集』19の27頁掲載)には、とあり、またその勝海舟が西郷隆盛に宛てた3月6日付けのつぎのような文面の書簡が添えられています。
『無偏無党、王道堂々〔蕩々〕矣、今
官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我が徳川氏の士民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。(後略)』
この海舟の「皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり」という言葉は、中国の古典『詩経』の「兄弟鬩于牆、外禦其務」(けいていかきにせめげども、そとそのあなどりをふせぐ)を踏まえたものです。海舟は、自分たちが徳川家に仕える人間でありながら官軍に恭順するのは、「現在の日本の形勢は昔と違って同胞が争っている場合ではなく、外国からの侵略の危機に一致団結して立ち向かわねばならないことを認識しているからである」と言っているのですね。
これを徳川家存続だけはなんとしても認めてもらいたいと懇願する天璋院篤姫の極めて「私的」な嘆願書と比較して、レベルが全く違うことが分かりますね。この篤姫の西郷隆盛への嘆願書は、徳川側の責任者となった勝海舟の和平路線に従って出されたものですが、あまり過大に評価するのはいかがなものでしょうか。
それで、無血開城の原因としては少なくともつぎの3点をあげる必要があると思います。(1)勝海舟と西郷隆盛の個人的信頼関係があったこと。(2)英国公使パークスが討幕軍が江戸城を攻撃すると聞いて、「吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は恭順と云うことである。その恭順して居るものに、戦争を仕掛けるとは如何」と批判し難色を示したこと。(3)そしてなによりも内乱の激化による外国勢力の干渉、侵略を恐れたこと。以上の3点です。
添付3
天璋院画像 川村清雄筆
明治17年(1884)
板絵油彩 縦53.5 横37.5cm
東京・_川記念財団
徳川家に依頼されて歴代将軍の画像制作を手がけた旧幕臣川村清雄(1852〜1934)が、晩年の天璋院を正面から捉えた肖像画。将軍御台所の風格をそなえ欣然と坐すその姿を見事に描写している。天璋院逝去の翌年に完成した。(展示期間:4/19-5/12)
添付4
大河ドラマ!宮崎あおい主演【篤姫】第48話〜
天璋院(宮崎あおい)は勝(北大路欣也)と対面し、官軍との戦を避ける方法について話し合う。勝は江戸に火を放ち、焼け野原にして官軍の江戸城攻めを阻むという策を披露する。一方の天璋院は、西郷(小澤征悦)の心を和平へと動かす手だてについて、幾島(松坂慶子)とともに思 案する。
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