新藤映画監督が100歳で老衰のため5月29日亡くなった。6月2日の通夜で、「一枚のハガキ」や日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞の「午後の遺言状」に出演した津川雅彦(72)さんが弔辞を読み、「先生の執念に参りました。愛しています」と別れを惜しんでいるのが印象的である。
新藤さんは社会派の映画監督であるが、モスクワ国際映画祭等で受賞した作品(「裸の島」「午後の遺言状」「生きたい」)に着目してみた。
「午後の遺言状」、「生きたい」は、老人問題をテーマにしている。
「
生きたい」は、1999年1月封切、「午後の遺言状」の姉妹編という触込み。
高齢化社会に向かっている今、高齢者の本当の気持ちを表現しつつも、究極的には親子間のほのぼのとした感情(きずな)により、救いがあることを伝えたいとしているところから、国際的にも異彩を放っている。すなわち、人間として共通する心情ではあるが、これまで経験したことのない琴線に触れているのではないかと思う。
ということで「生きたい」のDVDを探しているがまだ見つけていない。
『生きたい』の主人公・安吉(三國連太郎)は、15年前に妻に先立たれている70歳の老人で、40歳になる独身の長女・徳子(大竹しのぶ)と暮らしている。長男と次女は別居していて家に寄り付かず、一緒に暮らしている徳子は躁うつ病を抱えていて、安吉がトラブルを起こしたりすると、「オヤジのクソバカ」と罵り、「お前がいるからわたしは結婚できないんだよ」と咆哮する娘なのだが、安吉は飄々としていて全然動じない。それどころか寄る年波で安吉は失禁や粗相で娘を悩ませているのだけれど、そんな身体なのにしげしげと酒場通いをしたりしている。その酒場のママとはかつて関係もあった間柄らしいのだが、今はもう歴然と嫌われている。にもかかわらず酒場へのこのこ出かけ、挙句の果てに失禁騒動をしでかすので、「もう2度と来ないで」とママに叩き出されるのだけれど、「僕はボトルを預けているんだよ。また来るからね」といっこうにめげる様子もなく、何日か後には性懲りもなく出かけて行く。
現実にこの父娘のような人物と共に暮らすとしたら、とてもじゃないがたまらないということに多分なるにちがいないが、映画の中では2人のキャラクターは光芒を放っていて、観客の気持ちを引き付けて離さない。要するに面白いのだ。わたしたちの日常生活はくそリアリズムに満ち満ちていてともすれば窒息しそうだけれど、いい映画にはそんな日常の陳腐な現実をテコにしたり逆手にとって、日頃わたしたちが見失っている何かを垣間見せてくれる力がある。それが映画の面白さというものだろう。
この『生きたい』では、安吉と徳子を主人公にしたドラマと並行して、姥捨て伝説の物語がモノクロームの映像で描かれている。安吉は入院先の病院から姥捨て物語の本を退院する際に失敬してきて熱心に読んでいるのだが、身につまされ思い余ってのことか、その本を娘の徳子や酒場のママに盛んにすすめ、彼女たちに疎んじられている。
姥捨てバージョン版の方の主人公・オコマ(吉田日出子)も安吉と同じ年の70歳。2人の息子の長男の方にやっと嫁を娶らせると、「これでお家も安泰ぞ、自分の役割も終わった」と観念し、お山参りの準備にかかる。昔々の日本の貧しい村落では、そのようにして役立たずになった老人は山に捨てられた。それが子孫を繁栄させていくために不可欠の家や村落共同体の掟だった。オコマが息子の背負子に背負われ悟り澄ました表情でお山参りができるのは、自分が捨てられることで、子孫が生き延びていくことを確信しているからなのだろう。この映画では姥捨て物語が、そのように描かれている。
だが、安吉には、オコマのような悟りは開けない。赤紙1枚で兵隊に駆り出され、運よく敗戦で祖国へ帰還できたものの、空襲で焼けてしまって住む家もなく、空腹を抱えて闇市を野良犬のように彷徨するしかなかった青春時代。なんとか就職先を見つけ、今度は一転復興日本の企業戦士として身を粉にして働かされ、経済大国躍進の一歯車ぐらいの役割は果たしたはずなのに、気がつけば定年で、年金暮らしの老人になってしまったら、社会からも、家の中でも、尊敬はおろか、軽んじられ粗大ゴミ扱いされるだけの存在。姥捨て伝説はけっして昔々の伝説などではなく、現代だって老人を捨ててるじゃないか。しかも家も共同体も崩壊状態なのだから、オコマのように悟りの心境も抱けないのだ。安吉はそんな憤懣や焦燥感に身を焦がしているのだ。その気持ちが「冗談じゃないぞ、老人だって生きているんだ。生きたいんだよ。」といった生々しい生き方を、安吉に選ばせているのだろう。
けれども、そんな老人の鬱憤が単にリアリスチックに描かれているだけではうんざりしてしまう。ドラマには意外な展開や見せ場も必要なのだが、この映画にはちゃんとそんなシーンも用意されている。
結局、突っ張っていた安吉も医師や徳子の説得で遂に老人ホームに入居するのだが、このときの安吉の出で立ちがふるっていて、山高帽にモーニングを着用し、胸には勲章をぶらさげるといった佯狂老人ぶりなのだ。それを聞きつけ、ある日酒場のマダムが「ちょっと、あんた、これ受け取って」と徳子の家にやって来て、玄関の上がりまちに店に預かっていたウイスキーのボトルをどんと置いていく。そのときの2人の会話が面白い。「お父さん、老人ホームに入ったんですって?」「知らないよ」「これ、お父さんのボトル、返しましたからね」「ゲスヤロー」「それから、これ、お父さんのパンツ」と、放り投げ、「では、ソーウツさん、ごきげんよう」。ママは後腐れを恐れて、安吉がボトル・キープしたウイスキーをわざわざ返しに来たのだろうが、おまけに安吉が酒場で粗相した際のパンツまで届けてしまったのは嫌味であり勇み足だった。この一件でソーウツの徳子は一挙にキレ、ママは彼女から猛烈なしっぺ返しを受けるからだ。
それにしても徳子がママの店舗兼住居を急襲し、愛人とベッドを共にしているママに派手な殴り込みをかけ、それでも収まらずに飾ってあった青竜刀で店の酒瓶を叩き壊すという狼藉ぶりには、校長や赤シャツをやっける『坊ちゃん』を彷彿させるところがあり、なぜか痛快なのだ。
その足で徳子は老人ホームへ駆けつけ、「オヤジ、帰ろう。わたし、お父さんがいないと寂しくて死にそうなの。頼むから家へ帰ろう。」と強引に安吉を連れ出す。小さな身体の徳子が自分の倍もありそうな安吉を背負いよろよろ歩き始めたものの、それでは娘が可哀想だと気付いたのか、今度は安吉が徳子を背負って家路に向かうシーンは、観客にほのぼのとした希望を与えてくれるのだが、それは必ずしも老人問題のハッピーエンドの解決を示唆したものではなく、むしろ姥捨て伝説のパロディーだろう。
圧巻はラストシーンで、家に帰って安らかに昼寝している安吉のところにどこからともなくカラスが集まって来ると、徳子が猟銃でそのカラスどもを派手に撃ちまくり、真っ黒い羽毛が室内に吹雪のように乱舞するという鮮烈な映像で息を呑む。カラスは死の象徴としてこの映画には随所に登場するが、徳子は父親のもとに忍び寄る死の影を追い払うつもりだったのだろう。
それにしてもこのような徳子の激情的暴発が痛快に映り、共感さえ覚えるのは、そこに無垢な魂の叫びが認められるからであり、彼女の怒りが父親の憤懣を代行するものだったからでもあろう。現実にこのような乱暴狼藉を働けば、事件として警察に逮捕されるか、精神病院に送り込まれるのがオチであることは言うまでもない。映画だから許されるのだし、それが映画の面白さなのだ。
この映画の特別上映会の前に行われた挨拶で、新藤兼人監督は次のようなことを語っている。「私は80の坂を越して、初めて老人というものが内側から見ることができるようになった。今まで外側から見ていた時の老人像は、欲も得もなくなった枯れた存在だったり、仏様に近くなった人間といったイメージだったのですが、自分自身が正直正銘の老人になってみると、そういうものではない。家族や世間から見捨てられれば不満や怒りがつのるし、やり残したことに対する焦りだってある。妄執と笑い飛ばされるのかも知れないが、老人になっても、まだ生きたいんですよ。」
老人になると、ボケたり寝たきりになってしまい、介護が不可欠の厄介な存在というイメージが世間では定着しているようだけれど、そういう老人問題の捉え方はあまりにも役所のレポートみたいに画一的で、陳腐で、老人の実情にかならずしも即したものではないことが、この映画を創った新藤監督の言葉には認められる。
『生きたい』という映画の面白さは、何と言っても主人公に佯狂老人とソーウツ娘というキャラクターを設定している点にあるだろう。この映画の父・娘は、世間の物差しで計ったなら、度を過ごした変わり者に違いないが、人間の精神(魂)だけは失っていない、そんな人物として描かれている。ドラマの世界の話ではあるが、シャバという人間精神の希薄な世界で佯狂とソーウツという仮面に身に纏った(たぶん、そうでもしなかったら人間精神を失わずに生き続けることは難しいからだろう)主人公を自由闊達に動き回らせている。それゆえ、この映画は、老人問題というシリアスなテーマを有しながら、どこか可笑し味があり、痛快なシーンもあり、面白いのである。