”篤姫”の物語の先行情報を知ってもいいと思われる皆さま、
この度、NHK大河ドラマ、”篤姫”のファンの方から、なぜ東の京とばかにされていた東京に天皇が移られ、遷都されたのか?という質問が発せられ、私なりに回答を添付ファイルに作成してみました。
もしかすると、”篤姫”ファンであるかもしれない皆さんに取ってもためになる情報といえるかも知れません。
2008年9月15日 敬老の日
MM
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NHK大河ドラマ、「篤姫」的視点からの遷都論
2008年9月15日
NHK大河ドラマ“篤姫”のファンの方からの、「どうして、京都が都だったのに、東の京ってバカにしていた、東京に遷都したのかを知りたい」という質問に答えて欲しいという要請がありました。それに応えて・・
歴史的に見ると鎌倉時代や江戸時代には鎌倉や江戸の「政治の都」と京という「儀礼の都」のように2つの首都があっても同居できる時代が長く続いていました。その意味で質問の気分も分かろうというものです。
ただ、幕末期を迎え、世界の列強国が植民地政策で日本にも着目し始め、具体的に北方ではロシアが北海道を狙い、アメリカのペリー艦隊の来訪(植民地化というより、開国による貿易の開始要求)、英の中国の植民地化に続いての日本への興味などという外部からの圧力が強まってきました。
そこに国内では、おなじみの尊王攘夷論が出てきて、夷という外からの野蛮人を排斥するために結集すべき中心人物として、唯一中核になり得る、王、即ち天皇が担ぎ出されるという社会情勢になっていきました。それ以降天皇プラス天皇をサポートする公家の影響力がアップし、徐々に天皇の住む京と幕府のある江戸という二極化が進んでいきました。
『明治維新は薩摩・長州などの勢力が徳川幕府を排除して天皇中心の新しい国家を建設しようという意図のもとに実行したものですが、民衆にとっては250年にわたって日本を支配してきた徳川幕府こそやはり日本の中心と思えました。当時外国の中には日本が江戸を中心とする国と京都を中心とする国に東西分裂するのではないかと予測していた国もあったようですし、政府自身もその危険を感じていました。その危険を回避するとともに国民に自分たちこそ日本の中心であると納得させるためには天皇自らが江戸城に入り、そこから天下に号令することが一番よいと維新の中核メンバーたちは考えました。そこで取り敢えず天皇は明治元年9月20日江戸に向かい10月13日江戸城入城、ここを東京城と改名する詔を出します。』(添付1)
この後一時結婚のため京に戻り、翌年3月28日に東京城に再入城され、これが遷都と呼ばれるもので、決して天皇ご自身が東京に移ることを望まれたわけではなく、時代の流れに従ったというようなものでした。
ただ、当時の京の人の気分からみれば、
『結局正式な遷都の布告はなく、「天皇が東京にいる間は太政官も東京に置く」というなんとも玉虫色の宣言がなされただけでした。しかも京都市民に向けて「東国は未開の地であるから度々行幸して教化するが、決して京都を見捨てたりしないので安心するように」というメッセージまで出されます。要するに日本の首都はどうも法的に厳密なことをいうとまだ京都であり、天皇が東京に「滞在」している間だけ、臨時に東京が首都とみなされるということのようです。』(添付1)、
『明治2(1869)年3月28日、明治天皇が東京に着き、江戸城改め皇城(1888年、宮城と改称、現・皇居)へと入りました。いわゆる「東京奠都」(東京遷都)ですが、この京都から東京への「遷都」の際、明治天皇は「ちょっと(東京へ)行って来る」と言って、京都を出たと言います。「ちょっと行って来る」と言う以上、当然、「暫くしたら(京都へ)帰って来る」と言う訳で、当時の京都の人達は、東京への「遷都」では無く、せいぜい「行幸」程度にしか考えていなかったと言えます。又、「東京遷都」に際しては、ある手続きがなされませんでした。それは、時の天皇が、「何時いっか何処々々に都を遷す」と宣言するもので、いわゆる「遷都の詔勅」と呼ばれるものです。』(添付2)
・・という気分が残っていたようです。
添付1
東京遷都?(1869)
慶応4年は9月8日に改元され明治元年となり、その翌年の3月28日、若き天皇睦仁(明治天皇)は江戸城改め東京城に入り、城の中に太政官府を設置します。これを一般には東京遷都としています。
明治維新は薩摩・長州などの勢力が徳川幕府を排除して天皇中心の新しい国家を建設しようという意図のもとに実行したものですが、民衆にとっては250年にわたって日本を支配してきた徳川幕府こそやはり日本の中心と思えました。
当時外国の中には日本が江戸を中心とする国と京都を中心とする国に東西分裂するのではないかと予測していた国もあったようですし、政府自身もその危険を感じていました。その危険を回避するとともに国民に自分たちこそ日本の中心であると納得させるためには天皇自らが江戸城に入り、そこから天下に号令することが一番よいと維新の中核メンバーたちは考えました。しかしその為に天皇が京都を捨てるとすればそれは京都の民衆の同意を得ることは難しいものと思われました。
そこで取り敢えず天皇は明治元年9月20日江戸に向かい10月13日江戸城入城、ここを東京城と改名する詔を出します。しかし京都市民の思いに応える為この年は12月22日に京都に戻り、28日には一条忠香の娘美子(はるこ,皇后になる以前の名前は寿栄姫)を皇后として立て戊辰戦争で慌ただしい中一通りの祝儀が行われます。
しかし天皇は再び3月7日東京に向かい、この28日着。結局正式な遷都の布告はなく、「天皇が東京にいる間は太政官も東京に置く」というなんとも玉虫色の宣言がなされただけでした。しかも京都市民に向けて「東国は未開の地であるから度々行幸して教化するが、決して京都を見捨てたりしないので安心するように」というメッセージまで出されます。要するに日本の首都はどうも法的に厳密なことをいうとまだ京都であり、天皇が東京に「滞在」している間だけ、臨時に東京が首都とみなされるということのようです。
しかし京都市民はこのようなまやかしの言葉に納得はしませんでした。同年9月になって皇后も東京へ「行啓する」という話になりますとその行列を止めようとする民衆が道にあふれ、兵が蹴散らさなければならなかったといいます。
このようにして130年前の「遷都?」は実行されました。
添付2
東京は「首都」ではない!?〜異例中の異例だった「東京遷都」(2000.7.7)
江戸(東京の前身)は、慶長8(1603)年、徳川家康による「江戸開府」以来、徳川将軍15代のお膝元として、250年にわたって、日本の「政治の中心地」として機能し、明治維新後、東京と改称された後も、政治・経済・文化の中心地として繁栄してきたのは確かです。しかし、その東京が、実は「首都」では無いと言ったら、皆さんはどう思われるでしょうか? と言う訳で、今回は「首都」であって「首都」では無い?東京について書いてみたいと思います。
「今でも京都が日本の首都」・「東京の皇居は別荘で、京都の御所が本宅」。現在も、京都の人達の中には、この様に考えている人が少なからずいます。しかしなぜ、明治維新の際、東京に「遷都」して130年も経た今尚、この様な考えが残っているのでしょうか? 実は、幕末維新の動乱の中、京都から東京への「遷都」に際して、ある手続きがなされなかったからなのです。
明治2(1869)年3月28日、明治天皇が東京に着き、江戸城改め皇城(1888年、宮城と改称、現・皇居)へと入りました。いわゆる「東京奠都」(東京遷都)ですが、この京都から東京への「遷都」の際、明治天皇は「ちょっと(東京へ)行って来る」と言って、京都を出たと言います。「ちょっと行って来る」と言う以上、当然、「暫くしたら(京都へ)帰って来る」と言う訳で、当時の京都の人達は、東京への「遷都」では無く、せいぜい「行幸」程度にしか考えていなかったと言えます。又、「東京遷都」に際しては、ある手続きがなされませんでした。それは、時の天皇が、「何時いっか何処々々に都を遷す」と宣言するもので、いわゆる「遷都の詔勅」と呼ばれるものです。この「遷都の詔勅」は、奈良時代の平城京遷都(和銅3=710年)、平安時代の平安京遷都(延暦13=794年)の際、時の天皇から発せられました。しかし、「東京遷都」に際して、明治天皇は「遷都の詔勅」を発してはいないのです。
更に不思議な事は、明治維新に際して、京都から東京へ「遷都」したにも関わらず、東京を「首都」とする旨の法令も政令も存在しないと言う事実です。つまり、京都から東京への「遷都」は、ある意味で場当たり的に行われた事になり、東京は「遷都の詔勅」と言う「お墨付き」の無い中途半端な都だと言えるのです。しかし、皆さんの中には、「誰が何と言おうと、政府の所在地で政治・経済の中心地は東京なのだから、東京が首都である事に変わりが無い」と仰る方もおありでしょう。では、徳川時代の「首都」もやはり、京都では無く江戸だったと言うのでしょうか? なぜなら、江戸も徳川時代、幕府(政府)の所在地として政治の中心地だった訳ですから・・・。しかし、江戸は「首都」とは呼ばれませんでした。政治の中心地であったにも関わらず、「首都」はあくまでも京都でした。この様に見てくると、日本の「首都」の定義は、極めて曖昧なものと言えます。いや、そもそも日本人は、源頼朝が初めて将軍となり幕府を開いて以来、「政治の都」(鎌倉・安土・大坂・駿府・江戸)と「儀礼の都」(京都)と言う「展都」体制に慣れ親しんできたせいか、「首都」に対する厳密な定義を必要としなくなったのかも知れません。