クリスマスに謎を感じられたことのある皆さま、
クリスチャンでもないのに、Xマスとは(注)・・とこの時期の商業主義に怒りの気持ちを持たれた方もいらっしゃるとは想いますが、このシーズンになりますと仕方のないことです。わが家の周辺にも、この時期になると、派手なクリスマスの飾りがお目見えします。宗教を別にすれば、なかなか見事な飾りであると感心しています。今夜は家内に誘われて、それらの現場を訪問し、記念に写真を撮ってきました。
注:”Xマス”の表記は正しく、”X’マス”の表記は正しくないという指摘があります。
私も5年前に、NHKのクイズ番組に端を発して、キリストの誕生日とされるクリスマスの日を自分なりに探り、紀元前6年3月28日がキリスト(その時はまだイエス)の誕生日と結論をつけてみました(下記)。
普段は気にもされないこととは想いますが、この時期でもあり、
『クリスマスの語源はラテン語の「クリストゥス・ミサ」の略で、キリスト(Christ)のミサ(mas)を意味しています。クリスマスは、Christmas または Xmas と表記します。Xmas の「X」は、キリスト教文 化圏の基本的な記号「クロス」つまりは「十字架」を意味し、これ自体がキリストを表わす記号です。ちなみに「mas」 はミサです。X'masは正しい表記ではありません。』
・・という”クリスマス” と、”Xマス” の語源を頭に入れて、周りの皆さんとの勝負に勝利して下さい。
2008年12月23日(火)天皇誕生日
MM
能見台地区、派手なクリスマスの飾り
能見台地区、派手なクリスマスの飾り
キリストの誕生日を紀元前6年3月28日と認定
2003年12月28日
NHKテレビでクリスマス・ツリーの上に飾られるベツレヘムの星とイエス・キリストの誕生という謎解きの番組をやっていました。
その説は、次の2点を解説していました。
① キリスト誕生は紀元1年ではないということ。
キリストはヘロデ王の治世に生まれたとマタイ伝にあり、ヘロデ王が亡くなった年紀元前4年以前にはキリストは生まれていた事になる(添付3)。
② 東方の三人の占星術師(マギ,東方の三博士)がベツレヘムに見た星であること。
彼らは星の動きからこの世にユダヤ人の王が生まれたことを察知し、その場所がベツヘレムであることを知り、やがて星の導きによってマリアたちが泊まっている馬小屋にたどりついた(添付2)・・ということがクリスマス・ツリーのベツレヘムの星となっていること。
そこでイエス・キリスト(キリストと認知されたイエスと言うべきかと思います:注)の誕生日を探る旅に出ることにします。まず月日ですが殆どの説は12月25日を論外としています。納得できそうな3月28日説に遭遇しました。
注)キリスト:救世主「メシア」のギリシャ語訳が「キリスト」。彼が生まれた時の名前はイエス。
旧約聖書の創世記の【光を造り、昼と夜を分けた】という記述を昼の長さと夜の長さが同じになる春分の日(当時春分の日は3月25日に定められていた)と考え、その3月25日が天地創造の第一日目とし、次に旧約聖書のマラキ書の 【義の太陽が昇り】のところで 救世主(メシア:キリスト)は「義の太陽」と言うことになるとします。旧約聖書の創世記では第四日に「神が太陽と月を造った」ことになっているので、その日は3月28日になり、このような理由で、イエス・キリストは3月28日に生まれたと考えた・・という説(添付4)です。
次に誕生年はいつかという点です。ヘデロ王が亡くなった紀元前4年以前というのは殆どの説で共通で、「今日の研究では、イエスの誕生は紀元前4年と考えられます(添付5)」という表現のものもありましたが、それ以上の解説はないので落とします。「聖母マリアとヨゼフは人口調査のためにベツレヘムに来ていたとあります。当時人口調査を行なったのはローマ皇帝による紀元前7年と、シリア提督の行なった紀元前6年になります(添付3)」という説はなかなか説得力がありそうでした。
また、東方の3博士が追いかけた「星」が現れた現象を分析しているものも多数あり、彗星説の多い中で「有力説として、紀元前6年の3月と4月にあった可能性の高い「月による木星食」{木星が月に隠れる}がそれという説も(添付6)」に説得力を感じました。上記の紀元前7年又は6年という説とこの説を合わせて紀元前6年としてみました。即ち:
イエス・キリストの生誕日=紀元前6年3月28日 …・という認定です
この調査の途中で、いくつか興味ある情報に遭遇しましたのでアット・ランダムに以下に並べておきます。
① XmasのXは十字架を意味し、Xmasは正しい表記で、X‘masは正しい表記でない(添付1)。
② ローマ初代皇帝アウグストゥスは税金の管理のため、人民の登録作業を進めていました。マリアは臨月になっていましたが、ヨセフはこの登録のため、マリアを連れてベツヘレムに向かいました(添付2)。
③ ヨセフとマリアがベツヘレムに来てみると、同じように税金のための登録に訪れた人たちで町はいっぱいでした。ヨセフは泊まる場所を探しますが、どうしても見つかりません。そして、やっと見つけたのはなんと馬小屋でした(添付2)。
④ イスラエルを支配していたローマの属国の王・ヘロデ王はユダヤ人の間に優秀な王が生まれたことを予言によって知りました。その王を抱いたユダヤ人たちが自分たちの国を作るため再起することを恐れたヘロデ王は、その王が生まれたとされるベツヘレム付近の赤ん坊を皆殺しするよう命じました。しかしヨセフとマリアは天使の導きにより難を逃れ、エジプトに脱出しました(添付2)。この物語は「幼児虐待」というテーマで多くの絵画に描かれています。
⑤ 西暦は6世紀の初め頃に制定され、利用され始めた(添付7)。
⑥ 4世紀のエウセビオスの『教会史』が上げられます。ノストラダムスも言及しているエウセビオスはキリスト教世界で最初の優れた歴史家でキリスト教世界史像の形成に重要な役割を果たしました。この本の中で、例えばイエス生誕の年を「アウグストゥスの治世の第42年、クレオパトラの死後28年目」といった「治世年」で示しています(添付7)。
⑦ 強大な帝国・漢は,政治の乱れから滅びようとしていました.その時,夜空には巨大な彗星が,まるで200年続いた漢の時代の終わりを告げるかのように現れていました(添付9)。
⑧ アレクサンドリアの聖クレメンテ(AD150—220 ギリシアのキリスト教神学者)の記録によれば、西暦200年頃5月20日に最初のクリスマスがエジプトで祝われていたということですから、現在の12月25日より半年ほど時期がずれていたことになります(添付5)。
⑨ 「ヨハネ伝」を除く「マタイ伝」・「マルコ伝」・「ルカ伝」の3福音書は、共通の資料を有しているらしいことが判ってきた。そういう訳で、この3福音書のことを「共観福音書」と呼ぶようになった。しかも、その成立順は、新約聖書に収録されているマタイ・マルコ・ルカの順ではなく、「マルコ伝」はイエスが十字架刑によって死んで(AD30年頃)から三十数年経ったAD66〜70年頃、「マタイ伝」がAD80年頃、「ルカ伝」がAD80年代後半頃、(因みに、「ヨハネ伝」はAD90年代)に成立したらしいということまで判ってきた(添付8)。
添付1
クリスマスの由来・歴史
クリスマスは、12月25日にイエス・キリストの生誕を祝う祭典です。イエス・キリストの誕生日には色々な説があります。では、なぜ12月25日にイエス・キリストの生誕を祝うようになったのでしょうか。
クリスマスの起源には諸説ありますが、古代ローマで冬至の日に行われていた「太陽神の誕生祭」や「農耕神への収穫祭」が、後にイエス・キリストの生誕祭と結びついたといわれています。
当時のローマでは、太陽神を崇拝する異教が大きな力を持ち、12月25日を太陽神を祭る祝祭日としていました。そこで、初代キリスト教の指導者達が、異教徒との対立や摩擦を生むことなく、異教徒にキリスト教をひろめるために、12月25日をクリスマスにしたということです。
クリスマスの語源はラテン語の「クリストゥス・ミサ」の略で、キリスト(Christ)のミサ(mas)を意味しています。クリスマスは、Christmas または Xmas と表記します。
Xmas の「X」は、キリスト教文化圏の基本的な記号「クロス」つまりは「十字架」を意味し、これ自体がキリストを表わす記号です。ちなみに「mas」 はミサです。X'masは正しい表記ではありません。
添付2
クリスマス特集(10) キリストの誕生
■ベツヘレムへ
その頃ローマ初代皇帝アウグストゥスは税金の管理のため、人民の登録作業を進めていました。マリアは臨月になっていましたが、ヨセフはこの登録のため、マリアを連れてベツヘレムに向かいました。
■馬小屋で生まれる
ヨセフとマリアがベツヘレムに来てみると、同じように税金のための登録に訪れた人たちで町はいっぱいでした。ヨセフは泊まる場所を探しますが、どうしても見つかりません。そして、やっと見つけたのはなんと馬小屋でした。
ヨセフは身重のマリアを連れて馬小屋に泊まります。
ところが、その馬小屋でマリアは産気づいてしまいました。一際明るい星が輝く夜、イエスは生まれました。
■東方の三博士
東方の三人の占星術師(マギ,東方の三博士)が、星の動きから、この世にユダヤ人の王が生まれたことを察知しました。
3人はその場所がベツヘレムであることを知り、やがて星の導きによってマリアたちが泊まっている馬小屋にたどりつきました。
三人は若き王の誕生を祝福し、黄金と乳香と没薬のプレゼントをしました。三人の名前は、カスパール、メルキオール、バルタザール、といいます。
■ヘロデ王の殺戮
イスラエルを支配していたローマの属国の王・ヘロデ王はユダヤ人の間に優秀な王が生まれたことを予言によって知りました。その王を抱いたユダヤ人たちが自分たちの国を作るため再起することを恐れたヘロデ王は、その王が生まれたとされるベツヘレム付近の赤ん坊を皆殺しするよう命じました。
しかしヨセフとマリアは天使の導きにより難を逃れ、エジプトに脱出しました。そしてやがて、天使の導きにより帰国。ガリラヤ地方のナザレという町に移り住みました。
添付3
ベツレヘムの星
★キリスト誕生の日以後
キリスト誕生の日は様々な説があります。現在の通説を総合しますと紀元前7〜4年の間であろうとされております。聖書のお話を具体的にしてみましょう。
キリストがベツレヘムの商隊の旅篭(はたご)で生まれて間もなく、東の国、そうアラブやペルシャ辺りでしょうか。その東の国で見慣れない星が西の空に輝いたの見た今で言う占い博士達が見ました。
博士達は星が輝いたの見て聖人が現れた事を知り、その星を追って西の国へ旅立ちました。しかしその星は次第に太陽に近づくと見えなくなってしまいました。
博士達はしばし休もうと、水を飲むため井戸を覗くと、その水には星が写っていました。あの星がまた輝きを増したのです。そしてまた星を追いヘロデ王の宮殿にたどり着き、王に「ユダヤの王として生まれた方は何処におられるのでしょう」と訊ねました。
自分の替わりの王の話に驚いたヘロデ王は博士達に、そのユダヤの王を探して知らせるように言いました。
博士達が星を追ってキリストの居る場所に近づくと、その星が動きを止めそこにキリストが居たので、拝んでヘロデ王には知らせず東の国へ帰ってしまいました。
その後キリストの誕生の噂を伝え聞いたヘロデ王は、ベツレヘム付近の二歳以下の男の子を残らず殺すように命令したのです。
●キリストはいつ生まれたのか
さてお話の肝心な続きの部分はすっとばしまして(^^;
キリストはヘロデ王の治世に生まれたとマタイ伝にあるのですから、ヘロデ王が亡くなった年の紀元前4年以前にはキリストは生まれていた事になります。
また聖書のルカ伝には聖母マリアとヨゼフは人口調査のためにベツレヘムに来ていたとあります。当時人口調査を行なったのはローマ皇帝による紀元前7年と、シリア提督の行なった紀元前6年になります。ここからキリストが生まれたのは紀元前7〜4年と考えられています。
なぜ紀元が西暦1年となっているかは、それまでキリスト弾圧側の起源でしたのでローマの僧院長エクシグウスが、弾圧側の起源248年を、キリスト起源(キリストが生まれた年から)532年と定めたためです。今となれば恐らく計算違いであるとわかりますね(^^;
添付4
クリスマスの日の起源
●3月28日説
旧約聖書の最初の創世記・第一日に 【神は「光あれ」と言われた。すると光があった】と記述されています。これは神の言葉によって、混沌又は暗闇の状態よりも遥かに良くなったことをも示唆しております。
P典創世記では、太陽よりも先に 【光を造り、昼と夜を分けた】 と書かれており、違う典では 【夕となり、また朝となった】とあります。 注)ユダヤでは一日の始まりは日没からです
さて、「昼と夜を分けた」を昼と夜を半分半分に分けたと推測しまして、その日は昼の長さと夜の長さが同じになる春分の日(ニサン)であると考えました。そこで当時春分の日は3月25日に定められていたので、その3月25日が天地創造の第一日目と考えたのですね
次に旧約聖書のマラキ書第4章第2節に 【義の太陽が昇り】 第3節【その翼にはいやす力をそなえている】とあり、 救世主(メシア)は「義の太陽」と言うことになります。旧約聖書の創世記では第四日に「神が太陽と月を造った」ことになっておりますので、その日は3月28日になります。
このような理由で、イエス・キリストは3月28日に生まれたと考えたのです。
添付5
イエスの誕生
「福音書」は、イエス・キリストの生涯と言行を記録したもので、一般に新約聖書のマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書を指します。イエスの誕生から始まるこれらの書は、文字どおり救世主キリストの言動をえがく「神からの喜びの訪れ(福音)」ということからこのように呼ばれています。
イエスの誕生の様子についてはマタイおよびルカによる福音書に見られます。ルカによる福音書(2章第1節から14節)によれば、ローマの皇帝アウグストゥスから全領土の住民に住民登録の勅令が出て、人々は登録をするため生まれ故郷を訪れます。ナザレに住んでいたヨセフも身重のマリアを連れて出身地ベツレヘムへ向かいます。そこでマリアは産気づきますが、人々で混みあうベツレヘムの町で泊まる場所を見つけることが出来ません。結局マリアはある洞穴でイエスを生み、幼子は布にくるまれ、干し草を敷き詰めた飼い葉桶の中に寝かせられました。 ベツレヘム郊外には冬の間動物が寒さをしのぐ場所として使われていた洞穴がたくさんありました。イエスが生まれたのもそういった洞穴の一つでした。
起源と日付の謎
現在、プロテスタントやローマ・カトリック教会のほとんどの人々は12月25日(東方教会やアルメニア教会は12月25日あるいは1月6日)を降誕日として守っています。しかし、聖書にはキリスト誕生の正確な日付が記されていません。今日の研究では、イエスの誕生は紀元前4年と考えられますが、月日については不明です。アレクサンドリアの聖クレメンテ(AD150-220 ギリシアのキリスト教神学者)の記録によれば、西暦200年頃5月20日に最初のクリスマスがエジプトで祝われていたということですから、現在の12月25日より半年ほど時期がずれていたことになります。
添付6
薫葉豊輝の電脳日記
イエス・キリストの生誕年の謎?
……・・
そこでキリスト教に対し猛烈な関心の炎が燃える。ミッシングリングを求めて!
まずキリストの生誕日は西暦0年12月25日と思ってたら、どうも12月25日はローマ宗教「ミトラ教」のミトラ神の誕生日を受け継ぐ説があり、さらに、ベツレヘムの星{キリスト誕生}の出現年も不明という説が最近は出ているそうです?
説によると、ヘロデ王の死ぬ前にイエスの誕生はあるので、ローマの年代学者ヨセウス・フラウィウス{紀元37〜95年}が「月食とそのあとの"過越しの祭"の間にヘロデ王死す」と記しているそうなので、その前に療養の旅{紀元前4年}へ王は出てることから。・過ぎ越しの祭と、月食=復活祭の元の祭{今のイースター}で春分の日のあとの、最初の満月の次の日曜日の日。
紀元前6〜1年のいずれかに誕生ではという説があるそうです。{5〜1年まで4回月食があったそうなので}後、当時の星空を再現したサイトなどを観ていると、当時のエルサレムの12月は雨季で、星が見えたか?という疑問も浮上しているのには{そこまで詳細に分析されてるとは}驚く。{毎日雨降りでもないとも思いますが、雨空の間の晴れた日に誕生と思案できるのでは?イエスの存在=「雨降って地固まる」という言葉を喚起}
だから生誕年の絞り込みは、「ベツレヘムの星」が頼り。
調べると、「彗星説」が有力で、紀元前4年の彗星{尾なし}・前5年=大彗星が70日続く・前10年=彗星あり・前12年=ハレー彗星。
このなかで、ヘロデ王の死んだ年が紀元前4年なら、紀元前5年の大彗星ではと唱える方もいることには面食らう。記述や数字だけで、ここまで推理してるなんて。{当時の文献によると、超新星の記録はないそうです}
もう一つ、有力説として、紀元前6年の3月と4月にあった可能性の高い「月による木星食」{木星が月に隠れる}がそれという説も。
では、易で西暦0年から前6年を観てみよう。ポイントとなる大彗星の見えた紀元前6年は甲寅。木星食のあった前5年は乙卯。そして西暦0年は庚申で、西暦1年が辛酉になっている。
星を見ると、0年と1年が強烈に強い。やはり西暦0年か1年なのでは?孔明が生まれた年と同じ「辛酉」の年なら、三国志関係の文献にある通り「易六十四卦の中の辛酉の年には、天命改まり、偉大な人物が登場したり、新しい時代がはじまったりする」と東洋で伝わるように、まさにメシア誕生と符号するかも?{もしこれなら、ここから又、1260年サイクル論を展開しよう。それは又今度}あるいは、その前年の「庚申」でもかなり強いし、神の使いという面で符号する。昔から、庚申の日は、人の体内にいる三匹の虫が天へ帰り、その月の人の行いを天へ報告するといわれがあるように、庚申はまさに神の使いと思案できる。
同時に、木星食のあった年も非常に気になる。今直感したことだけど、木星食{前6年}の「木」というキーワードと、易{五行}の「木」が符号している。それも甲{木の陽}寅{木の陽}と木がダブルで入っている{木の陽が二つくるのは60年に1回しかない}。
もしや翌年{前5年}の大彗星と、木星とは何らかの関連性があるのでは?何故なら、前5年もダブルで木が来ていて{易の開始は甲子だけど}乙卯の年なので、木{陰}と木{陰}を示す。この木が二つあるのは、何か感じるものが{木の陰が二つ来るのも60年に一回切り}しかし、どれもそれなりに説得力がある分、絞れませんね。
純粋に易だけで思案するなら、イエスの誕生年は西暦1年が有力で、空に浮かぶ本当の星から見ると、彗星が70日続いた前5年{7という神秘の数もあるし}と木星食のあった前6年が有望そうな。しかし、易と星双方の視点を掛け合わせて考えてみると、木星食のあった前6年はかなり有望っぽい!
何故なら、易で「木」は{それも木の陽がダブルで来てるし}、五行の第一番目の数であり{易の総合では甲子が始めですが}、そのうえ、{陽の}木が二つ揃う前6年{甲寅}は、何かが始まると喚起してしまう。そこに、木星が重なるんだから、木が三つ。三つか、凄くいい数では?
今日の読書は小森健太郎著「神の子の密室」=死後、洞窟から消えたイエスの遺体の謎を推理する歴史ミステリ。これは、推理小説史上に残る作品では!?
「神の子{イエス・キリスト}の密室」小森健太郎読了。書評荘UP
添付7
聖書クロノロジーの形成
まずキリスト紀元である西暦 A.D.がいつごろからなぜ使われ始めたのかですが、それは6世紀の初めスキタイ生まれの修道士ディオニシウス・エクジグウスが作成した復活祭表で初めて用いられたようです。それまでの紀年法はローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位年(A.D.284年)を紀元とした、「ディオクレティアヌス紀元」でした。天皇の即位を起点とした「昭和」「平成」などの元号と同じようなものです。ディオニシウスは、「このキリスト教の迫害者からではなく、主の托身(キリストの生誕)から数えるべきである」として復活祭表を作成しました。これがA.D.の初出となります。さらに歴史記述において初めて A.D.を用いたのが7世紀後半から8世紀前半のイギリスのベーダで『イギリス教会史』においてです。
それ以前の歴史記述ではどのような紀年法を用いていたのでしょうか。初期キリスト教歴史叙述は4世紀のエウセビオスの『教会史』が上げられます。ノストラダムスも言及しているエウセビオスはキリスト教世界で最初の優れた歴史家でキリスト教世界史像の形成に重要な役割を果たしました。この本の中で、例えばイエス生誕の年を「アウグストゥスの治世の第42年、クレオパトラの死後28年目」といった「治世年」で示しています。このような起点の異なるの年代を参照するためにキリスト教クロノロジー、または聖書クロノロジーが形成されていったのですがその確立はエウセビオスに負うところが大きいのです。
添付8
ウルトラシリーズと共観福音書成立の類似性
すると、新約聖書の冒頭に収録されている「イエスの生涯(誕生から十字架まで)」について記録された「マタイによる福音書(以下「マタイ伝」と略す)」・「マルコによる福音書(以下「マルコ伝」と略す)」・「ルカによる福音書(以下「ルカ伝」と略す)」・「ヨハネによる福音書(以下「ヨハネ伝」と略す)」という4つの福音書のうち、明らかに「ヨハネ伝」だけは内容を異にしている(他の3福音書とは別の資料を元に成立した)ことが判った。そして、この「ヨハネ伝」を除く「マタイ伝」・「マルコ伝」・「ルカ伝」の3福音書は、共通の資料を有しているらしいことが判ってきた。そういう訳で、この3福音書のことを「共観福音書」と呼ぶようになった。しかも、その成立順は、新約聖書に収録されているマタイ・マルコ・ルカの順ではなく、「マルコ伝」はイエスが十字架刑によって死んで(AD30年頃)から三十数年経ったAD66〜70年頃、「マタイ伝」がAD80年頃、「ルカ伝」がAD80年代後半頃、(因みに、「ヨハネ伝」はAD90年代)に成立したらしいということまで判ってきた。
添付9
彗星博物館
--紀元前12年 中国 万里の長城
紀元前12年,中国.日本の20倍の国土を支配した強大な帝国・漢は,政治の乱れから滅びようとしていました.その時,夜空には巨大な彗星が,まるで200年続いた漢の時代の終わりを告げるかのように現れていました.
夜空の様子は地上に起こるできごとを表すと信じていた中国の人々は,この美しい彗星をみて,おそれおののいたのです.